Omoimoインタビュー!社長の想いを伝えます。
今回は、いつも社長が話される「家族3世代をつなぐ食を提供したい」という想いを
社長インタビューで紐解いていきます。
Omoimoで使われる紅芋「沖夢紫」の生産に至った背景や
この事業を通じて描くありたい世界を聞いてみました!
地域と食をつなぐ会社を目指して
➖創業63年。先代から次いだ会社への想いをお聞かせください。
弊社は、1959年に私の祖父である中本太郎が創業した会社です。
創業期は終戦直後ということもあり、焼け野原となったここ沖縄において、
人々の生活を豊かにするために、地域の発展と経済の振興を志し、会社を立ち上げたという話を、
私は幼少の頃から幾度となく、聞かされておりました。
(正直なところ、耳にタコができるくらい聞かされていたので、
当時はまたその話かと嫌がっていたのを記憶しております。)
そのようなこともあり、経営を引き継いだ今も中心にあるのは
働いている仲間や、地域にどう貢献が出来るのかを考えて経営をしています。
紅芋の焼き芋「Omoimo」に使われる沖夢紫が誕生するまで
➖直営農家さんと一緒に「沖夢紫」栽培をスタートした背景を教えてください。
沖縄は、観光産業を中心としたサービス業が経済を牽引しています。
観光土産商材においても同様に好景気をとなり、紅芋を用いたお土産の開発が進みました。
それらを背景に、久米島町でも原材料となる紅芋生産農家が大幅に増えていきました。
また、久米島町では、国の政策でかんしょに寄生する病害虫(アリモドキゾウムシ、イモゾウムシ)の根絶に成功。
それが追い風となり生産量も県内1位となっております。
その背景もあって、当時紅芋の安定的な出荷先として、地元の産業復興と雇用の創出を目的に、
地元の生産農家や企業を中心に紅芋加工や流通を取りまとめた組織の立ち上げ案が浮上、
ご縁があって、2016年にスイートフーズ久米島株式会社を創業し、代表取締役に就任致しました。
(設立当初、私はいわゆる外者であったため、会社のメンバーや生産農家の皆さんと仲良くなるために、
よく飲みの席に連れて行ってもらっていました。
農家の皆さんは、とても元気で、夜中3時ごろまでつきあわされておりました。
めっちゃ、キツかったです。笑)
しかし、創業2年が経過した頃、沖縄県内においてかんしょの病気であるサツマイモ基腐れ病が発生。
生産農家の収入は大幅に減少、その解決策として病気に強い品種「沖夢紫」の栽培を推奨していくこととなります。
2018年から苗づくりをスタートさせ、生産農家のみなさまの協力を経て栽培面積を増加させてきました。
Omoimo事業を通じて描くありたい世界とは
➖観光用お土産商品として沖夢紫を販売するのではなく、焼き芋で商品化した背景とは?
2020年以降、世界中で蔓延した新型コロナウィルスによって、
沖縄のリーディング産業である観光業も大きく衰退しました。
それに伴い、弊社が行ってきた従来のビジネスモデルも大幅にアップデートしていく必要がありました。
もとは、サツマイモ基腐れ病対策として、沖夢紫の栽培を進めてきましたが、
収穫量を約40トンまで見込めるようになった今、
従来の品種「美ら恋紅」と比較して糖度が高く、赤色の濃い品種で焼き芋や干し芋に適している沖夢紫を
観光を中心としたお土産用原料としてではなく、
毎日の食卓に並ぶおやつや食材として提案できるのではないかとOmoimo事業を立ち上げております。
➖「家族3世代をつなぐ食を提供する」に秘められた想いとは
私たちのライフスタイルや社会の価値観は、新型コロナウェルスによって大きく変容しました。
今でも記憶に残っているのが、最初に緊急事態宣言が発令された当時のことです。
会社もリモート対応、学校も休校。
生活様式や子供たちにおいても行動が制限された環境で負荷がかかり、
落ち着きを持てず、不安や恐怖心から家族との会話も減り、息苦しさを感じていたのは
私だけではないかと思います。
しかし、一緒にいる時間が増えたことで、
家族一人ひとりの長所や短所、価値観を改めて認識することができ、
共に生活することのありがたさ、家族の時間の大事さを強く実感できた良い面もありました。
そういった経験から、
社業を通じて人々を元気にし、笑顔を増やしたいという想いがあります。
紅芋が過去の歴史で沖縄の飢饉を救った様に、
令和の今、急速に進む社会環境や生活様式の変化の中で、
人として大事にしたい前向きな生き方や笑顔を取り戻す食材として
世代を超えて食が生み出す新たな価値を創造していきたいと思っております。